露天の野趣と目玉の道なき道

MEDAKA is the shop where you find (by) yourself.

非実用品店めだか店主の佐藤です。

目玉を旅させる。目玉を散歩させる。目玉を漂泊させる。そういう目玉の足跡を示さなければならない。
見るために見る目玉ではなくて、見つけるために歩く目玉を。あてどもなくゆく目玉のあり方を。

今回の目玉の行き先は東京の競馬場でおこなわれたフリーマーケットです。

この写真のものはすべて0円です。横の露天を見ていたときに背後から「ぜろえーん!ぜろえーん!」という声が聞こえました。振り向いて、広がっていた景色がこれです。0円露天、初めて見ました。

本記事では、そこで撮影された露天の陳列について、佐藤が撮影時に得た直観を写真を手引に言語へともたらします。

今から紹介される露天の陳列は洗練やミニマルさ、スタイリッシュさとはかけ離れたところにあるものです。即興性・その場性が特徴の露天は記録に残されにくく、記述の添えられたそうしたものは寡聞にして知りません。また、露天は常設店舗よりも低く見られる傾向にあり、さらに店主が年配の場合さらにその傾向は強まります。この扱いは不当ですが、しかし、その不当が不当であるということを示すにはこれらが持つ価値の固有性を示さなければなりません。つまり、この固有の美的価値・認識的価値を一つ一つの実例に即して具体的な記述へともたらさなければなりません。そして、それらを共有すること。共有はこの価値を私だけのものであることから普遍性へと開放します。真理は所有に馴染みません。真理は匿名的です。共有の道は真理を真理へと至らしめる道なのです。

それではあなたとともに道へ…。

○柳行李と座布団とクッション

ここでまず示されるのは、立てられた柳行李の直立性とそこから投げ出されたクッションらの寄る辺なさです。

柳行李から見ていきましょう。ものを収めるものとしての柳行李は立てられてしまい、その役目を放棄してしまっているように見えます。しかし、その見かけは実は一時的なものです。また単なる放棄でもありません。このフリーマーケットが終わりに近づく頃、彼は地面と平行になり、このクッションらをまた己のうちにしまい込み、さらに彼自身も車の中にしまい込まれます。この役目の放棄は単なる放棄や中断ではなく休息です。一般的に、すべての道具はその機能を何らかの理由で遂行し得ない場合、使用の場合とは違った仕方で我々に目立ってきます。この柳行李が我々の目を引くのは柳行李の「第一次的な意味」として見做されている「ものを収める」という機能が休止されているからです。それでも、この休息する柳行李は、使用可能性を閉じてはいません。彼は休みながらもつねに備えています。

ものを収納しているという彼の日常的なあり方に比して、休みながら備えつつあるというあり方は特異です。このあり方はフリーマーケットが始まって「から」終わる「まで」持続します。始点と終点の顕在化。このあり方の特異性と連動するかのように、フリーマーケットという時間の限定性が浮き彫りになります。さらに彼自身の時間も普段とは違った仕方で際立ってくる、というよりも初めて見えるようになってきます。彼のこの直立する休息はつかの間の一瞬であり、そのつかの間の休息を成り立たしめるのはフリーマーケットという時間であり、それが終わるとしまわれる。彼の時間は見えなくなる。

さて次にクッションと座布団ですが、このクッションと座布団らは無作為に投げ出されているという受動的あり方のうちにいます。使われることを待ち構えているようです。この待ち構えは柳行李の備えとはまた異なるように思われます。このように思われるのはおそらく、クッションや座布団が使われることを待つということをしばしばしているからです。しかし、それでもこれらは家にあるクッションらとは異なっています。というのも、これらが投げ出された場所はソファや畳の上ではなく野外に敷かれたビニールシートの上だからです。冒頭で述べた寄る辺なさとはクッションらが投げ出された場所に由来します。あり方は似ているけれども、置かれた場所が異なれば、その佇まいもまた異なって現れてきます。この寄る辺なさとは彼らを抱き寄せる人の不在であり、そうした人を待ち続ける健気なありさまです。

○屹立する花瓶群と二枚の盛付皿

今回は全体的な構成要素の列挙から入っていきましょう。画面置くに向かって伸びるブルーシートの上に屹立する花瓶16本。青九谷、香蘭社風、染め付け、その他不明の焼き物の花瓶、またガラス花瓶。二枚の盛付皿ーこれらはおそらくメラミン樹脂の割れない器ー。(撮影時、私の目玉の直観は下の箱やコップ、上のテーブルの花瓶らには働かなかったのを覚えています。それゆえに、ここでは挙げません。)花瓶と皿はどちらも何かを挿れる/容れるものですが、垂直性と水平性という違いが見られます。この違いは形態的に現れています。加えて、花瓶と皿とそれぞれに添えられる諸物の関係にも現れています。つまり、花瓶に生けられる花の大抵は垂直に伸びゆくものであり垂直的に生けられるものであり、盛付皿に盛られる食べ物は人間の手を介して口へと水平方向に移動するものです。垂直性と水平性という、対立する2つのカテゴリーがここで見ることができます。(※追記 立てられたものと置かれたものという区分を設けることもできます。もし花瓶が立てられているのではなく、横向きに置かれた場合、ここでの景色は全く違って見えるでしょう。)

ところで、複数の個体は類概念を喚起します。複数の花瓶は花瓶一般という類を我々に思い起こさせます。同じ類に属する個物同士は共通する属性(ここでは花瓶であること)を地盤として、近接性や疎隔性、類似性や異質性などの観点からばらばらの星が星座を構成するように結びつけられていきます。こうして、ランダムのように見える布置のなかに規則性を見つけようとする目玉の働きが顕著になります。具体的に見ていきましょう。画面中部上のガラス花瓶らは素材の同質性によって一つのグループを作っており、右上の茶色の花瓶2つは近接性と色彩の同質性によってグループを形成しています。その他の花瓶らはこれらと比べてバラバラのように見えます。強いて言えば、左から二番目のガラス花瓶の上にあるピンク?とアイボリーの花瓶、盛付皿の左にあるピンク?の花瓶はまとまって見えそうです。こうした、類とグループと個のバランスの中で、右下にある盛付皿二枚の存在が強調されます。つまり、花瓶同士の秩序関係を基調として、類的・形態的な差異による盛付皿二枚が際立ち、そして上で見た垂直性と水平性という2つのカテゴリーの対立・併存がこの際立ちに拍車を掛けます。屹立する花瓶群と二枚の盛付皿が我々に与えるものとは静かに遂行される秩序形成と2カテゴリーの均整のとれた緊張です。

○ファミコン柱アンプコンポタワー

パッキングされた二柱のファミコン柱を支えとするアンプコンポタワー。これは現代彫刻です。というのは冗談です。いやむしろそのように言って片付けてしまうことは怠惰な目玉です。

川の流れが石を、その形を変形させつつ、運ぶのと同じく、物流はときに諸物を想像もつかない姿へと変形させます。そうした変形の一事例として捉え、その対象の背景まで遡り包括的に捉えること。グランドキャニオンや阿波の土柱、ウユニ塩湖、特異な風土が奇景/奇勝を形成するように、特異な物流は異物を作り上げます。我々はそれに相対したとき、その景色の奇怪さに目を開かされ、それを形作ったプロセスが視界の地平へと入り込んできます。そして、奇景はそれに相対する人々に保存を要求します。このタワーもまた崩されることを拒否するように抵抗します。抵抗の主体として、タワーは我々の前に立ち現れています。

部分的に見ていきましょう。複数のファミコンがフィルムによってパッキングされ、一つの柱としてあります。その上にあえて載せられたファミコンの箱とアンプとコンポ。右にこれらを置くスペースがあるようにもかかわらず。陳列の常識に照らせば、横のスペースへ分割して置くことが最適に思えます。しかし、別の可能性も考えられます。まず、画面奥に立てられたプレイステーションの箱を見てください。それは縁石の上に立てられています。プレイステーションを目立たせるためでしょうか。我々は今、露天の主の隠された意図へと遡行しています。遡行した先からもう一度ファミコンタワーへと下っていけば、このタワーの形成意図を推定することができます。つまり、この露天の主はファミコンをファミコンとして売っているのではなく、アンプとコンポを目立たせるための柱もしくは台として扱っているのではないか。

あくまで、これは推測に過ぎません。露天の主に聞くこともためらうような些末なことでしょう。このためらいはキリスト者が天主=神の御業を目の前にして、その意図内容を結局は知られないまま推し量ることしかできず、その神秘に立ち尽くすという事態に似ています。類推的に考えると、私は事態の些末さゆえに聞くことをためらっているのかという疑義が生じます。そして、実はそうではないということが分かります。このためらいは別のところから発しています。それはファミコン柱アンプコンポタワーをあるがままにあらしめるためのためらいです。

このタワーを見て、「ファミコン一つください」と言う客はいるのでしょうか? いてもいいと思います。

ところで、後ろにペンタックスのデカデカレンズがありますね。撮影時には気づかなかったです。使う予定はないけどもっと見ておけばよかった。

○試されている

九谷焼が梱包されていたであろうダンボールを切り取り、長方形の紙を貼り「世界の一流品」と書いてポップを作る。傍らに電卓。商売する気まんまん。「世界の一流品」の売り方じゃない。画面上部のガムテープで十字に封をされた箱は一体何なんだ。

もしみなさんがこの前を通ったとき、足を止めることはできますか?ここで立ち止まり物をしっかりと見て買うべきものを買うことができたら、あなたは真の目利きです。我々は試されています。俺は素通りしました。

○まとめ

ここまで読んでいただきありがとうございます。露天の魅力が少しでも伝わったでしょうか。

以上の記述は個々の具体例に即したものです。そのため、露天一般の価値そのものについては述べられていません。これに迫ることこそが真の課題なのですが、まずは具体例をより多く取り上げることで輪郭を浮かび上がらせたいと思います。次回もご期待ください。

また、なにか疑問や意見があればお気軽にコメントください。
























○まとめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

前の記事

22/6/11品物